クライマックスファイターズが面白かった話
「仮面ライダークライマックスファイターズ」は2017年の年末に出たPS4の格闘ゲームだ。仮面ライダー同士がジャケットの時点で殴り合おうとしているところから、多分戦わなければ生き残れないとかそういう状況なんだろうと思う。殴ってはいないのは多分善意だ。知らんけど。
もともとそんなに広くゲームをする方ではないので評価は不正確かもしれないけど、簡単に評するなら、「CPUとの戦闘だけだと単調になりることもあるが、絶妙なバランスで何故か楽しい」作品だというのが現状の評価だ。
格闘ゲームは、友人の家で散々やったスマブラとガンダムの格ゲーくらいの歴の浅さだが、このゲームは「なんかどのキャラもワンチャンいけるのでは?」って思える所がとても稀有だと思う。
このゲーム中のキャラの技は、バランス悪いし害悪な攻撃が多い。ロック強勢解除無限やHP回復、強制追尾でオブジェクトを避ける遠距離技を使えたり、ごん太ビーム無限発射に高速移動、コスト支払わずに復活など、そんなのありかよって攻撃やスキルが入り乱れる。コンセプトが「個性VS個性」らしいのだが、大混戦である。こんなの見たら凸凹な平成を醜く感じて、真っ平にしたくなるのも宜なるかなって感じだ。(バトライド・ウォーの時は制作側のギミック配置の苦心が見えたし、原作再現ゲーって難しい。)
しかし、だ。どことなく突破できそうなキャラが多い。またおかしなことに「何とかうまく立ち回れたら逆転出来るじゃん」って感覚が常に付きまとう。一見キャラのバランスが悪いが、全体で見るとバランスは良い(ように感じる)。
個人的にちょっと残念だったところは、クライマックスヒーローズみたいな原作映像再現必殺じゃなくなったところ。オンラインの乱戦ものじゃ無理(超クラヒのエターナルとか映像が長かった)なのでコンセプト的に仕方がないが、ギャラリーであれを見るのが好きだったのでちょっと悲しい。ま、別シリーズなんで期待する方が悪いんですけどね。
*初代クラヒと超クラヒしかプレイしてないけど、超クラヒの完成度はむせび泣いた。 毎回弦太郎の心臓を止める前のメテオがツボ。
これと似た感じは「マーメードメロディーぴちぴちピッチ」のGBAのゲーム「マーメードメロディーぴちぴちピッチ ぴちぴちっとライブスタート」で感じたことがある。このゲームは音ゲーなのだが、押し間違えると歌声が消えるのでなく音程が不安定になるという異色のゲームだ。そんな音を外すことを原作再現として(そんなにこのことについては語りたくないので詳しくは調べて欲しい)楽しんだひともいるだろうが、この外したことによって逆にいい味出していて、ハモってないのにハモった感じがするというを体験した方は多いと思う。あんな感じだ。
*アニメの歌は確かに不安定なところがあったけど、名曲ぞろいなのでぜひ聴いてね!
とまぁ、クライマックスファイターズはこんな感じの作品で、キャラの少なさ(と言っても初代スマブラよりはいる)を気にしなければなかなかに楽しい。狙っているのか偶然なのかよくわかんないハーモニーが大好きっていう私の好みにはバッチリはまった。よくわかんなかったって?だったら買ってやるしかない!
雑記を書きながらアニソンを差し込む
ブログを作ったはいいが、数本の記事を書いただけで止まっている。これは簡単に言うと、4つの理由があるように思える。文体があやふやなこと、ネタがないことと、方向性が決まっていこと、そしてブログを書く意味が分かっていなかったことだ。
まずは文体の話。正直言うと、色々な文体で書いてきたが、これが一番書きやすい。多分固い印象を持たれそうだと思ってきたが仕方がない。私の中の言葉の中で他の人に話すのはこのような口調が一番しっくりくる。これが自分だ。受け入れるしかない。
このような心情に達したのは色々あったが、この曲のおかげという話にしておく。
私が何かをごちゃごちゃ言うよりこの曲を聞いて欲しい。というか、関係なくてもあってもいいから聞いて欲しい。
*『KING OF PRISM -Shiny Seven Stars-』の第2話のプリズムショーの映像美は必見だ!
話を戻そう。書かなかった理由として次にあげられるのはネタがないことだ。これはこの前までそうだった。しかしよく考えると、ネタなんて「これがネタだよ」なんて降りてくるものじゃない。餌を与えられられるのを待っているひな鳥気取りはやめるしかない。(「ひな鳥気取り」って韻が踏めているのでちょっと嬉しい)
ヒナの歌と言ったらN〇Kみんなのうたで流れた「ヒナのうた」がなかなか印象的だ(美術館に閉じ込められることに引けを取らないほど私にとっては衝撃だった)が、残念なことに今回ここで必要なのは飛び立つ勇気だ。そこで、聞きたいのは次の歌だ。
*「駅前パルコ」のパルコが店名なのか「公園」を意味するイタリア語やエスペラント語等の名詞なのかは私にとっての永遠の謎だ。
まぁそれは置いておく。その他の原因は方向性がないことだ。今まで不定でやっていたので、どの話をするのかという点で尻込みをしていた。正直自分でも自分の「所属」が分からないという状況だ。青春、だね。しかし、大事なことは書いて表現して自分を知ることではなかろうか、などと思うので、まぁ書くしかない。
事実ベースで紹介するには情報収集能力がなく、主観ベースで話すには観察力と体の中の「ストック」があまりにも少ない。そう思っていたが、まぁ書くしかない。
これにつけて何かの曲をと思ったが、特に思い出せないので、『スパイダーライダーズ オラクルの勇者たち』のOPを聞こう。
最後にブログを書く意味だ。これが正直よくわかっていなかった。Twitterというツールがある状況でブログのような閉じたものを書く意味とは?何となくやってみたい、そのような気持ちはあったが、これがまぁ続かない。
しかし、今さっき紹介した『スパイダーライダーズ』を含め、現在のネットの海(この表現も随分古風なものになったものだ)に埋もれたものを打ち上げるのも悪くはない、はずだ。あと、こんな長文を書くのが案外嫌いじゃないって今気が付いた。
『焼きたて‼ジャぱん』では、未だ見ぬ「ジャぱん」を夢見てパンを創作していく。ならば私もそれに倣ってみてもいいのではないか。
*『焼きたて‼ジャぱん』関連なら、ザ・ベイビースターズの『Sunday』もいいぞ!
日付は飛び飛びで、分量もバラバラでも、まぁ問題なんてないでしょう。とりあえず、ノージャンル問題ないでしょ。ねぇ。
そして、(多分本物の平安貴族はこうじゃないと思うけど)平安貴族風に心情に合わせて歌を入れてみたら、DJっぽいことをしている人になってしまった。平安貴族が実質DJだったのかと思うと、DJポリスも風流に感じる。
とりあえず何か書きたいという衝動はこれで収まり、加えて貴族=DJの法則を見つけたので、これでまた世界が少し豊かになった、気がする。ああ満足だ。(了)
独特なリズム。『サムライフラメンコ』【アニメ視聴後雑記】
皆さんは、『サムライフラメンコ』というアニメを知っているだろうか?
超ザックリと紹介すると、2013年から2クールに渡って放送されたヒーローを題材にしたアニメだ。
Out of date な話だが、つい先ほどこのアニメを観終わった。そのノリで感想を書く。
知っている人は今更なお話かもしれないが、お目汚しながら読んでいただけるとありがたい。
知らない人は今ここで知ればいい。さぁ!dアニメストア等にアクセスだ!
以下ネタバレ有りの殴り書き
簡単なおさらい
物語やキャラクターについてはを見て欲しい(投げる)
物語のテンポ
さて、この物語の内容に入らずにそのテンポを簡単に述べると「なかなか癖の強い物語」という評価が妥当だと思う。
主人公 正義の肩書に注目してお話の流れを整理すると、「モデル兼不審者 → モデル兼ネットで有名な不審者 → モデル兼悪の組織と戦う民間ヒーロー → モデル兼国営戦隊のレッド → モデル兼国家反逆者 → モデル兼地球を救った英雄」という怒涛の展開が22話でまとめている。起承転起転起転転承起承転結といった作りのように感じた。(起承転結という括りが漢詩の創作のためとか言う議論は置いておく。)
視聴している際、常に私はこの物語に危うさを感じていた。何に対してとは正確に言えないが、正義がダークサイドに落ちそうな危うさだったり、第7話「チェンジ・ザ・ワールド」以降の物語がすべて夢なのではないかという危うさだったり、と見ていて常にハラハラした。
加えてこの物語は鑑賞している間、帰着点が全く分からない。というより帰着点がすぐに変わってしまうのだ。何かが壊れ何かが生まれるのがあまりにも早い。日曜の朝からヘボット毎週キメていた私でも、なかなかの速さについていくのに疲れを感じるものだった。
(ヘボットはいいぞ!)
では、このリズムはあまりにも早いだろうか?答えはNoだ。多分この流れは私たちの人生と同じリズムが流れている。そう。一瞬で何かが変化し、その中で流されていき、未来が描けない、描けても変化していくその様子が。
この物語世界は当初、私たちが生活している世界とよく似た設定でスタートする。これは非常に入りやすい導入だ。しかしある瞬間に自分たちの目の前に怪人やエイリアンたちが現れることが常態化し、果てには非常事態が宣言され、物語の中のヒーロー達が実在しその力を振るう。ある一瞬からそんな世界へと急変する。
そんなこと有り得えない、なんて幼い頃の私は言えたかもしれない。だが現在の私はそれが起きても多分不思議に思わないだろう。これは現在の世情からそう言っているのではない。人の体や心が限界を迎える瞬間なんて一瞬だからだ。何かの臨界点を超えるとそれまでの世界が一転する。そうなると物語は常に転がり続けてしまう。
この物語は常に転がり続け、外見的には斜め上へと飛躍し続けた。
アナログに変化するキャラ
外見は転がり続けていたものの、内面は転がり続けていたわけではない。むしろその逆だ。
正義は最初から最後までおバカでまっすぐな青年だった。外見が貧弱な初期のサムライフラメンコであろうと、サムライレッドであろうと、総理と殴り合った以降の強化型サムライフラメンコであろうと、全裸であろうとも。彼は正義のままであった。
後藤さんも、フラメンジャーに誘われようとも副大統領に誘われようと、変わらず町のおまわりさんだ。
(画像は後藤さんでもなんもなく、師匠)
他のキャラに目を向けてみると、後藤さんはずっと病んでいて、まりは勝気なままだ。石原さんは正義を育てようと厳しく当たり続け、今野さんはずっと面白いものを探している。そう、彼らを含めたすべてのキャラクターは狂っていたが、その狂いは多くの場合そのままだ。
しかし、それでいて彼らの中の時が進んでいないとか、進歩が無いかといえばそうでもない。正義は肉体面が強くなり、友達がいないと言っていたのとはウソのように仲間ができて師匠もできている。
後藤さんもアイツの存在を支えとしているのは変わらないが、アイツとの距離はほんの少しながら変化した。まりがゲロを吐きながら自分の矮小さに向き合ったりと、それ以外のキャラも徐々に変化していく。
話のテンポが怪人などの本来居ない存在が居るようになったことに起因するオンかオフかの二極のどちらかであるデジタル的な思考だとすると、それに対してキャラはオンやオフではないアナログな変化を経ている。
大切なものは目に見えない
「大切なものは目に見えない」と第2エンディングテーマ「フライト23時」にサン・テグジュペリの『星の王子さま』の一節が引用されている。
王子さまのキツネがこれで述べたかったことは、「時間」の重ね合わせを経て「大切」なものを形成する「特別さ」や「質」が生まれる、ということだったと記憶している。
後藤さんはアイツの特別さに縛られていて、澤田灰司は特別さを見つけることができなかった。確かに居る・居ないは一瞬で変化するものの、特別さを感じる・感じないという状態が一瞬で変化することは難しい。この二項の間の混沌とした状態がとても幅広い。何か特別な状況(騙されて拒否されるという場合や、生きている事に対する歓びを感じるなど)が無ければ難しいと思う。
『星の王子さま』の中でキツネは「特別なものには責任も生じる」ということについても話の流れで語っている。responsable なので、応答性と言うべきなのかもしれないけれど、とにかく「特別」と感じたものからはそうそう逃げられないのだ。
最後の最後、後藤さんは相変わらずアイツと連絡を取り、灰司は傍から見ると狂った形の愛をまだ正義に対して示している。
正義は彼らに対して長く付き合っていくのだろう。もう宇宙の意思から何もないとは言われたが、もしも世界がまた何かで変わったとしても正義は正義のままで、ヒーローしながら彼らと付き合っていくのだろう。
とりあえずのまとめ
物語の筋としては急転に次ぐ急転で非常に忙しい。しかしキャラに目を向けたらば、未曾有の状況の中で振り回されながらも、自分のペースのまま何かを一歩づつ進めていく若さ泥臭さに非常に惹かれる。戦隊描写など言いたいことは山ほどあるが、独特なリズムで何かと心に残るアニメだ。
【読書記録】レジリエンス入門
今回は『レジリエンス入門』(内田和俊著 ちくまプリマ―新書 2016)を読んだ。
【内容】
この本の主張は「複数の思考を持ち、最善を尽す考えを根底に置くことでストレスから立ち直りやすい心を作ったほうが楽ですよ」というものであった。
筆者はまずレジリエンスという概念について説明し、自身の性格が「思考」「感情」「行動」で形成されていると指摘。「感情」はコントロールできないが「思考」と「行動」は自分で変えることができ、またこれら3要素が関連している事から「感情」を間接的にコントロールできると考えている。
「思考」と「感情」のうち、「思考」というフィルターを重要視する筆者はこちらに対してアプローチをしていく。
このような考えを元に、「完璧主義」が心にストレスを与え続ける傾向があることを理由に「最善主義」へのシフトチェンジを提案する。
【感想】
「レジリエンス」という語については今回初めて知りました。
今回読んでいて大切だと思ったことは、強い心がどんなものでも跳ね返す無敵のハートではなく、凹んでもすぐに戻る柔軟さを持ったハートだという考え方ですかね。どうしても鋼のメンタルという言葉の如く、凹まないようなものを意識しがちですがそれはどうしても壊れてしまいますものね。
最近の状況を見て、どうしてもソワソワした心になる人や自分の完璧主義を何とかしたい人は読むといいかもしれません。
【読書記録】読んでいない本について堂々と語る方法
『本を読む本』を引っ張り出したついでに、ピエール・バイヤール先生の『読んでいない本について堂々と語る方法』も思い出したので記録を書いておく。
【ザックリ内容】
まず「読んでいない」という言葉から、あなたはどのような状態を思い浮かべるだろうか?この本は、「本を読んでいない」とはどういう状態なのかという地点から話をはじめる。
「本を読んでいない」を「分類して考える」と聞くと不思議に感じる人もいるかもしれない。しかし考えてみてほしい。学生時代に「全然勉強していない」などと言いながらテストで高得点を取る人を。そのクチの人もいるかもしれないが、彼・彼女らは「勉強していない」の基準が周囲と違う、たぶん。もしかすると、彼・彼女らの中では「9割取れて普通」のような考えだったのかもしれない。
そんな議論は置いておいて。この本では「読んでいない」を、「まったく触れていない」から、「読んだけど忘れた」まで幅広くとる。その結果として、「本を読む」という行為を、特定のテキストの文字列を追うという凝り固まったイメージから、テキスト外の文脈を含めたより全体的な方向性・書物の空気を読む形へと誘う。
この「読んでいない」を基礎として議論は展開する。「私たちが読んでいるのは本そのものではなく、自分の心の中にあるその本に対するイメージだ(要約)」というスリリングな議論を経由して、タイトルにある通り本を語る方法に話が移る。
語る方法は、大雑把に書くと「堂々と自分を語れ」ということ。詳しくは本を読んでほしい。
【感想】
これを読んでいる時に、「読んだけど忘れた」という状態も「読んでいない」に含めているのが、私には印象的でしたね。「確かに、面白かった記憶以外何も覚えていない」ということ、恥ずかしながら多々あります。しかし、そういう作品について簡単なおしゃべりくらいなら出来るのは、生活の経験からしてあります。間違っているなんて誰が言えるでしょうか?
とは言っても、あくまで「コメントせざるを得ない背水の陣的状況用」という印象が強かったです。内容的にも「したくない書評をする」みたいな、業務的な例が引かれていますし。
目の前の本が世界全体の遍く知識の中で、どの文脈に位置しているかを知ることで本の内容にアタリをつける旨は、確かにそれは意識するか否かに関わらず、多分みんな多少は使っているのです。しかし、書評で使うにはかなりの知識レベルが必要になるわけですよね。残念ながら私にはそんな器用なこと出来ません。というか、ブログ内ではそんな状況にはならないでしょうから多分使うことも無いでしょう。
そんなわけで、コメントする際の心がまえは最大級で使えます(現状使っている、つもり)し、本を読むということがどういうことかを考える良いきっかけになるいい本です。ただ、ある程度は本を読んで頭を捻っておかなきゃいけないんだろうなって思うので、私は今まで通り読んでいきます。
【了】
【読書記録】本を読む本
折角なので、この前の日記で触れた『本を読む本』の内容と感想を手短に書いておきます(書く内容がないわけではない)。
この本の原著は1940年出版だそうですが、まだまだ色あせていないと感じたね。現に講談社学術文庫に入って、また売られているのだからそういうことなんでしょうが。
この本で紹介される読み方は、「学術的なものや業務的に読む必要がある、一義的に意味を定められる文章を正確に理解する読み方」です。「これはこういう主張をしてるんですね!」みたいな感じになりたい人用ですね。そうなりたくなくても、主張を読みとる必要がある場面は日常の中に多いので、目を通して損はないと思います。
小説や詩など「あぁ、エモッ!!!」ってする本に対してはこれに書かれた読み方で読むには向いていないかもしれませんが、一応それ用の読み方も書いてあるので、文学などを読みたい人が手に取るのもありでしょう。(ただし、訳者あとがきで、原著者の意向で削った部分があるとの旨あるので、何かの時は原著で。)
著者は、この本の中で読書の段階を4つに分けて紹介してました。詳しい方法などは読んでもらうとして、大まかに言うと下のような感じですね。
1.文字が識別出来て「読める」段階
2.本の構成を理解する段階
3.筆者の考えを自分の言葉をすり合わせ読みとる段階
4.自分の関心に合わせて多数の本を関連させて読む段階
レビューをするなら2~4の段階について言及するべきだろうし、現にページが一番多く割かれているのは第3段階ですが、読書記録なので自分は第1段階に注目します。
新しい単語を覚えることが億劫で投げ出したり逃げたりするのが私の癖でして、現状なかなか新しい単語に出会い、気づき、覚えることも少なくなっている実感があるんですよ。そんな中で、この章の存在は少しづつでも単語を増やしていくようにと気が引き締めてくれるのではないかな~、と感じました。また、他言語を学ぶときにこれを頭に入れておくと学ぶうえでの指針になりそうです。
当たり前かもしれませんが、あくまでこの本は文章を可能な限り咀嚼しながら文意に沿って正確に読んでいくという「一つの読み方」を提供しているだけです。これが「最良の読み方」だったり「真の本の読み方」だったりはしません。多分誰しも書物と自分の何かが共振するような読み方をするときもあれば、スナック感覚に読むときもあって、それ以外の読み方をするときもあると思います。本と自分が融け合ったり、どこかに引っ掛かっていた随分前に読んだフレーズがふとした拍子に思い出されたり、理解できたりなどが読書の醍醐味だと思いますし。
そんなわけで、この本は「自分の関心に合わせて本を選び、それぞれを正確に読み取っていく」という読み方を教えてくれる本でした。この読み方を忘れたり確認したいときは、また手に取るだろうと思います。
まぁ、まずはこの読み方を身に付けろって話なんですけどね!それは言わないお約束ってことで。
【了】
【日記】 言葉のすり合わせと辞書
大変な世界情勢だが、この場所くらいはこれまでのような生活を仮想的にしていてよいのだろうと思う。というかさせて欲しい。
M.J.アドラー C.V.ドーレン著 外山滋比古 槇未知子訳『本を読む本』という本をこの前読んだ。「本なんて誰でも読めるし、そんなものを読まないとお前は本すら読めないのか」などと思われるだろうが、まあ残念ながら私は本が読めない人間なので致し方ない。基礎レベルなんて私には高い壁過ぎて、乗り越えられるかいささか不安だ。
これを読んだ時に、いまいちピンと来ていなかったけれど気になっていた部分が、今日生活していて、ふとつながった。
この本で第二部に区分された8章では、読んでいる本の著者が使用する用語と折り合いをつけることの重要性が説かれている。これは今更ながらの話だが、見落としがちになる視点だと思った。
言葉はその話者の意図や話題によっていつも違うニュアンスを持つ。それだけでなく、その人の経験や言葉の持つ分野的背景とかも影響する。辞書の額面通りに使う場面など稀で、そもそもそのようなことができる人など幾許もいないと思う。
一応というか勿論というか、私が生まれたときにはもうすでに辞書が編まれており、学校教育の場では単語帳を使った。私の日常生活で使わなかった言葉は、それらを通して学んだ。それらは正解集みたいなものと受け取っていたかもしれない。英語などその代表例だ。
こんな環境にいたものだから、人が辞書の中にある言葉を引き出して使っているように思ってしまっていた。しかしよく考えると逆だ。言葉が先にあり、文字化され、調査されることを通して「おおよその意味の範疇」が定められて辞書に掲載されるに至ると考えるのが無難だろう。人の言葉が辞書の中に納められているのだ。そうすると、辞書の方に自身を100%合わせてしまうのは筋違いな話だろう。(無論円滑なコミュニケーションのために、言葉の意味の中心を外さない努力をし続ける必要はある。)
ズレやその人独特の意味が言葉の中に含まれる。そこを埋めるのは自分の仕事だ。自分の中ではとある言葉の定義が「A」なのだから、相手もそう使ってるに違いない、などと考えていい単語の数は、この考えに基づくと一気に減る。
そうなってくると、互いに歩み寄る態度で読み書きをする必要があり、辞書や単語帳が必要だ。それも正解集としてではなく、自分が相手の言葉を理解するためのたたき台として。そう思うと辞書が持つ堅苦しさが消え、「ああでもないこうでもない」と苦悩する存在に見えてきた。
【了】