【日記】 言葉のすり合わせと辞書

 大変な世界情勢だが、この場所くらいはこれまでのような生活を仮想的にしていてよいのだろうと思う。というかさせて欲しい。

 

 M.J.アドラー C.V.ドーレン著 外山滋比古 槇未知子訳『本を読む本』という本をこの前読んだ。「本なんて誰でも読めるし、そんなものを読まないとお前は本すら読めないのか」などと思われるだろうが、まあ残念ながら私は本が読めない人間なので致し方ない。基礎レベルなんて私には高い壁過ぎて、乗り越えられるかいささか不安だ。

 

 

 これを読んだ時に、いまいちピンと来ていなかったけれど気になっていた部分が、今日生活していて、ふとつながった。

 

 この本で第二部に区分された8章では、読んでいる本の著者が使用する用語と折り合いをつけることの重要性が説かれている。これは今更ながらの話だが、見落としがちになる視点だと思った。

 言葉はその話者の意図や話題によっていつも違うニュアンスを持つ。それだけでなく、その人の経験や言葉の持つ分野的背景とかも影響する。辞書の額面通りに使う場面など稀で、そもそもそのようなことができる人など幾許もいないと思う。

 

 一応というか勿論というか、私が生まれたときにはもうすでに辞書が編まれており、学校教育の場では単語帳を使った。私の日常生活で使わなかった言葉は、それらを通して学んだ。それらは正解集みたいなものと受け取っていたかもしれない。英語などその代表例だ。

 

 こんな環境にいたものだから、人が辞書の中にある言葉を引き出して使っているように思ってしまっていた。しかしよく考えると逆だ。言葉が先にあり、文字化され、調査されることを通して「おおよその意味の範疇」が定められて辞書に掲載されるに至ると考えるのが無難だろう。人の言葉が辞書の中に納められているのだ。そうすると、辞書の方に自身を100%合わせてしまうのは筋違いな話だろう。(無論円滑なコミュニケーションのために、言葉の意味の中心を外さない努力をし続ける必要はある。)

 ズレやその人独特の意味が言葉の中に含まれる。そこを埋めるのは自分の仕事だ。自分の中ではとある言葉の定義が「A」なのだから、相手もそう使ってるに違いない、などと考えていい単語の数は、この考えに基づくと一気に減る。

 そうなってくると、互いに歩み寄る態度で読み書きをする必要があり、辞書や単語帳が必要だ。それも正解集としてではなく、自分が相手の言葉を理解するためのたたき台として。そう思うと辞書が持つ堅苦しさが消え、「ああでもないこうでもない」と苦悩する存在に見えてきた。

 

【了】