プリンセスチュチュの感想や雑感

はじめに

ARIAカレイドスター佐藤順一さんが監督をなさったプリンセスチュチュを観終わりました。初見ではなく2回目か3回目だった気もするけど、時々つまんでいたのでいまいち覚えていない……。まぁそんなことはどうでもいいですね。

 

プリンセスチュチュは「バレエ」と「物語」を題材とした作品です。詳しい内容などはここで書くのは面倒なので、wiki でも見てください。そんな事よりるぅちゃんの美しさについて述べているほうが人間として幸せだと思いますよ、私は。

 

バレエについてはからっきしなので理解できていない部分が山のようにあると思いますが、物語に関してはかなり感じ入るところがありました。それとるぅちゃんがとても美人でした。やはり儚さ美人。

 

これから先、つらつらと書くけれどガッツリネタバレがあるので、dアニメ等で絶賛配信中ですので、ぜひ見てから読んでくださいね!全26話!

(免責だけれど、公式ガイドや前にあったというイベントのレポなど読んでないので、ズレが有ったら申し訳ないです。その際は知らせてください)

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本題

プリンセスチュチュの全体的な印象は、「これまでの自分が無自覚で作ってしまい、そして従ってしまっている物語から自分たちの人生の手綱を自分たちの手に収める理性的な物語」だったなということでした。

 

 

ドロッセルマイヤーの紡ぐ物語は無意識に作られた常識に対応すると言えると思います。金冠町中央に位置する塔の最上階、人で言うと脳の場所に位置することから作られた自分の物語が対応しているでしょう。これは無自覚とも言えるようなものであり、なんとなくで取ってしまう行動の癖などと対応しているといえそうです。

 

物語の終盤に描かれる、あひるのペンダントが外れないシーン、そしてふぁきあが自動筆記させられるシーンはパペットのように操られておりとても印象に残ります。

しかし、程度を落とせば人が生きていく上で身につけるクセと同じといえると思います。

むしゃくしゃするからタバコを吸ってしまう、疲れると沢山食べてしまう、といったように、制御できない自分が怖くなる時が有るじゃないですか。

あれと同じで、ドロッセルマイヤーの言葉に従ってしまうのだと推測しました。

これは物語と癒着していると言ってもいいかもしれませんね。

 

 

そんな類推は無理やろ、レベル的に違うやろとおもうかもしれません。けれど次のことと同じに私には感じられたのです。

人の言葉を聞いて隔絶を感じたときにどうするかという時にあなたはどういう行動をとりますか? 黙り込む人もいれば、まだ話し続けて隔たりの様子を剔抉しようとする人もいれば、自分が悪いといじける人もいるでしょう。がなりちらして相手を従わせようと試みる人もいるかもしれませんね。

 

これらは全てクセであり、行動傾向だと言えます。仕事や趣味の癖が抜けてない瞬間なども癖づいた行動だなって実感する感じです。

生まれも育ちも日本の日本語話者が日本語そのものに疑問を抱かないように、彼らは自分の行動を疑問に思わない。それは常なる認識、常識ともいえましょう。

 

 

物語の卵の章と雛の章を俯瞰してみると、前半は自分の役割を明示されたものを受け入れるか否かという話としてみることができます。それを拒絶しまた流されるに任せるなどの反発や諦めに対して、あひるの望みと役割を引き入れる物語です。

後半は、示された物語、受け入れた(受け入れてしまっていた)物語からの離脱が主題となっており、テイストが全く変わっています。そもそも、王子様のロールが変わっていますしね。

 

ここで注意するべきは、これは物語の否定ではないということです。現にふぁきあは物語を書き続けているのです。問題となっているのは、どのような物語を紡ぐかということでしょう。

アンチテーゼはドロッセルマイヤーの書いた物語、または、それに従ってしまう自らの物語といえます。

こうなっているのも「物語」が大切だからでしょう。テキトーではあるが物語を作ってしまう力がなければ、人は生きていくのに苦労するはずです。因果を通した理解も推測も出来なくなるのですから、時間的な連続が失われ、未来も過去もただの混沌になるのかもしれません。

 

 

また、ふぁきあが書いているものが物語の続きということにも注目が必要でしょう。

彼はそれまでの物語を無かったことにしたり、それを無視して新しい物語を書き始めた訳でもなければ、過去の出来事がないことにする筋を作った訳でもないのです。

彼がしたのは続きを書くこと、それだけです。それは昔のことなどを全てひっくるめて受け入れた後に、どのような未来を選択するかという行為なのです。

 

諦め絶望し切った中で何も考えずに踊り続けるるぅと絶望の中でも自分の望みとそれの実現を考え踊ったあひる。この両者の対比が伝えたいことなのだろうと思います。

 

 

最後の最後、ふぁきあはドロッセルマイヤー由来の物語を書くからくりを破壊し、自分で物語を書き始めます。この行為も、物語からの脱却の話を端的に表していると捉えることが可能です。

また、場所も町の上(=上空)から、湖のほとり(=地上)へとなり、上から降りかかる空論から地に足付いた自分の物語になっていると言えるかもしれません。

 

 

つまりこの物語は、自分の物語を紡ぎ始める物語の過程を丁寧に描いた作品だ、と現状私は解釈しています。

 

 

そう考えると、バレエのマイムという行動や身体という物質が、言辞という無形のものと対比されてどのような印象を与えているのかと気になりますね。

 

また、物語からの脱却ということは、敷衍すれば、この物語に登場していた登場人物たちが一種のディアスポラを経験すると考えることも可能かもしれません。

事実、ぴけをはじめとする生徒はあひるの記憶を忘れており、彼女たちの物語は体感した事実と物語との不整合を(最終回のエンドロール様子から)あひるの不在によって感じているようですし、猫先生も全く違う猫生を植え付けられることでしょう。

(体感した事実と人生の物語が一致する必要があるのか、そもそもそれは可能か、という根本的な謎はありますが、今回は不問に付させてください……)

 

このような、大きな統一(「歴史」や「国家」、「家族」という仮構物)を失った中で、一体どのような纏りを構想するか、そもそも纏りを構想するかということは視聴者にゆだねられているのだろうと思います。物語を紡ぐ以上、まとまりを作る行為に向き合わないわけにはいきませんからね。

そこが、ふぁきあとドロッセルマイヤーの二人を分けた「責任を持つこと」に繋がっていくのでしょう。多分。

 

このように大きな物語から脱却して、物語を作り、そしてそれが支配的な物語となり、誰かに抜けられ破壊されていく循環が無常という一つの理なのかもしれません。

物語的には卵と雛ときて、今から成体となるわけですが、超えられる存在になる必要が生まれてくることは考えられます。卵と雛で作品的にはまとめることになり、かつ成功しているといえるのですけどね。

 

でもやっぱり私は納得しきれていな部分があるので、ここらへんはながながと考えていくことになりそうです。見落としているけど、書かれていたのかなぁ。

 

 

まとめ 

プリンセスチュチュはこれまでの自分という致し方なく折り合いをつけるものと、その自分という物語についての向き合い方に真摯に向き合った作品だと思います。

まぁそんな硬っ苦しいことよりもるぅちゃんがとにかく美人だったことが一番重要だと思います。るぅちゃんを見てほしい。

ちなみに私はふぁきあが一番好きです。

 

 

1.AKT 「あひると王子さま」~Der Nußknacker: Blumenwalzer~

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  • 発売日: 2013/11/26
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